何でも書ける自由帳

意味あり気な役に立たないことを綴る日記

友達不採用から考える会話の種類の違いとその人たちの特性について、だらだら書きながら着地点を求める

友達じゃないと言われたわけです。

真に受ければ悲しく、現実的に見ればそれまでの話ということになる。関係性が悪くなったのではない、初めからそれまでだったのだ。

 

一体どこまでが友達かなんて今まで考えたこともなかった。何となく話が合えば、そしてそれなりに話す機会が多ければそれでよしだった。

曰く、考え方という概要はわかるんだけど、内容というか気持ちとか話してもらってないから友達じゃないそうだ。そんな線引きがあるとは知らなかった。私からすれば個人的な話をしたつもりだったが、気持ちまでは伝わらなかったらしい。

 

つっこみを入れるとすると、気持ちを話してもらっていないとはどういう態度かということだ。自分が友達だと思っている人は気持ちを話してくれたかもしれないが、もし本当に気持ちが大切だとすれば気になったりして相手に聞いたりしないのだろうか。与えられないと友達になれないなら、それまでの時間は退屈しないのだろうか。

 

私は友達だと思わない人とはほとんど遊ばないので、友達じゃない人とよく会う人の気持ちがわからない。これは昔からそうで、大勢の飲み会なんかに呼ばれても仲良くない人とは何かが生まれるわけではないので結局みんなと離れて飲んでいた。確か面白いと言われたが、それが本当なら飲み会で考えると特有の盛り上がりとか何かやったりする奴をみて楽しんだりするように、誰でもよくて気持ちよくなれたらOKみたいな、消費者の臭いがしてくる。私はつくづく消費されやすい人間である。

 

消費者は得てして自らを安売りする。友達ではない人間に話せないことはないと言ったのだ。私は友達だと思っていたから、それならば話せないことはないということに同意できるが、友達でない人ならあえて話せるか試すために個人的なことを話すことはあっても、すべて話せるわけではない。大切な話は友達ではない人に易々と話さない。なんでも話す代わりに何を得ているのだろうか。場の楽しさなのか、一定の好意なのか、いずれにしてもその姿は援交と重なるように思える。自分を無価値にすれば、大切という値札が付いた事は相手にとっては意味があり、自分にとっては無意味になる。自分の意味を信じられないことが完全にあるかといえばそれは嘘だと思うが。

 

考えてみれば大人になるとあんまり感情の話をしなくなるのかもしれない。男特有かもしれないが、自分と目指す方向が似たような仲間を見つけるときには考え方を共有することの方が多いように思う。何をどう感じようとも、方向性が同じなら受け入れることができる。まあ、似た者同士はその感情の部分も大体似たようになるのだが。

逆に女性には、共感や同感をもとにした仲間探しをする人が多いのかもしれない。

どちらが良いとか悪いではなくて、率直に感情が近いと仲間の感じがする感覚がいまいちわからない。確かに、感情は雰囲気として伝わっていくので自分と違う感情の人がいるとそちらへ引っ張られて振り回されることが考えられる。近しい感情の者同士なら自然に過ごせるだろう。ただもしかすると近いとかではないのかもしれない。人の感情を同じように感じたいとか、人の感情に動かされたいとかもあるかもしれないと今思った。

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風呂に入っているときにまた思いついた。

感情を主体とする会話の特徴は、内容が分からなくても感情だけでコミュニケーションが成立することだ。分かるというベクトルが考えではなくで感情に向いている。人の話の内容は頭で理解できないことがあり、人間にとって会話している相手との不理解は心理的分断をもたらすので、感情というルートを残しておくことは不通を避けるのに役立つ。かつてバイト先のおばちゃんから「気持ちを話した方がいいよぅ」と酔っぱらいながら言われたことを思い出したが、きっと彼女は私の話を分かってなかったのだろうな。

 

しかし人と繋がれる瞬間というのは恐らく誰しも嫌なものではないだろう。むしろ本来的な欲求ならば快といってもよい。ではいつから私は感情を話さなくなったのだろうか。感情を話せば快が得られる可能性が高くなるのに、である。だから、かつて感情を話して嫌な思いをしているはずだ。あるいは気恥ずかしさとか。んー、これは気恥ずかしさだろうな。ちょっとは嫌な思いもあると思うが。根本先生は自立するほど零れ落ちると言っていて、最初の方に書いたが大人になると感情を言わないことが増えるのは普通だということだ。そして、人目を気にする状態が恥ずかしさということらしい。見せられない守りたい自分がいるということだ。

そうすると、感情をそのまま表現することは無防備になるのと等しい。もし感情が理解されなければそれこそ大ダメージになる。世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな気分と感情があって、どうされるかわからないその中に自分をさらすというのは自殺行為といえる。つまり、感情は恥部であり、感情を出さないのは社会で生きるのに必要な防御策なのだ。だからあからさまに感情が出ている人を見ると、恐らく違和感があるだろう。それは露出狂に出くわしたときと同じ感覚なのかもしれない、あったことないけど。

そして恥部の見せ合いはつまるところセックスであり、これが男女間で友情が成立しないという所以かもしれない。男女間で感情を見せ合ってしまったら、恋愛関係に発達することは想像に難くない。

ところがそううまくいかないことも大いにある。人と繋がることは快であるけれど、いわゆる生理的に無理みたいな、初見や早い段階でつながりたくないと思われてしまう場合である。あるいは、いきなり感情を見せつけられても、それは恥部を見せられたときと同じように、びっくりするし常人として疑わしくなる。繋がりたいときに感情はうれしいけれど、普段は見せつけられたりしたくない。

ちょっと極端なところもあると思うが、人との会話ではおおよそ感情はドラスティックで、考えはスローで分からなければ味気ないこともある、という具合だろうか。いつでもドラスティックしたいエモジャンキーはさておき、私としては考え方主体で話して、感情はスティディリトリーブ中のショートジャークのように平打ちで見せる、くらいが大人のカッコよさとして丁度よいと思うし、そんな人がいれば魅力的だね。

 

ところで、今回の相手は本当はどうなんだろうか。感情を聞いたときの会話の楽しみには見せ合い的な、あるいは盗み見的な要素を見出しているのだろうか。それとも、見せてくれていたのに乗らなかったことを恨んでいたのだろうか。それとも、感情があるということ、あるいは見せてくれるということをただ観測したかっただけなのか。1番目なら変態、2番目なら子供、3番目なら…卑怯者

ということで今回はこれまで。もう一度機会があれば