何でも書ける自由帳

意味あり気な役に立たないことを綴る日記

仲間になると承認欲求が満たされる

何かの集団に属することは人間の本来の欲求のひとつだ。それは野生では弱かった人類が生き残るために集団化していた頃からのものだろう。個人の生存のために属し、その集団へ貢献することで仲間から大切にされて更に生存確率が高まる。自分のためは人のため、人のためは自分のためという循環が成り立つ。人類はこの欲求に従って集団を組織化し、村、町、国という具合に人の集合を大きくし、統治のための社会システムを築いた。
社会システムは多くの人の命を保証している。食糧を生産し、それを運ぶ者、加工する者、提供する場所を作る者、道を作る者、ありとあらゆる仕事が作られ、その労働の対価としてお金を渡しサービスと交換することができる。自然の中に人類の領地を作り広げて野生の危険を遠ざけた。社会システムに従って生きていれば、従来よりずっと生きやすく死ににくい。
しかし、現実は生きにくいという人が一定数いる。生存を保証する救済措置がありながらもである。どうやら人はただ命が保証されるだけでは納得しないらしい。
その感覚がどこから来ているかと言えば、それは生存に関わる欲求が満たせていないことからではないかと思う。その欲求は食欲や睡眠欲のように、満たせないと命に関わる。つまり、文字通り生きにくいということになる。もちろん、あらゆる欲求はそれを満たせないときは不満が生まれて、溜まれば生きにくいということに繋がる。ここで言いたいのは枝葉の欲求ではなく、根幹の欲求である。そして、始めに述べた所属とか承認の欲求は人としては根幹の部分にありながら満たせないという例が、実は発達した社会システムによってもたらされているという疑いを私は持った。
今や人の仕事はシステムを維持するためにあると言っても過ぎることはない。システムの維持は生存に必要なのでそれ自体は間違っていない。しかし、人は自分の属する集団に寄与したいのであって、システムに寄与したいわけではない。所属と承認はセットだと思うが、システムが自分を認めてくれるというのは実感として考えにくい。では会社はどうだろうか。会社で働けば人のためになるが、自分の仕事が街ですれ違う人にどれだけ感謝されるだろうか。どんな有名な会社でも自分で名乗らない限り感謝されることはない。社内では、何かプロジェクト等の大勢でやる仕事や部課ではその中で必要とされることはあるかもしれない。しかし、多くの業務が日常のルーティンでシステマティックに片付き、共働が生まれないところもある。
こうして、自分が属する集団が実は良く分からないということがシステムによって大きくなった集団では起こりやすい。人は自分の手の届く範囲にある物理的に実感がある集団と顔の見えない遠くの集団に属するのが実情だろう。どちらも大切なことであるが、どれを認知するかは個人に委ねられる。遠くの集団に重きを置く場合、誰かのためになっていると思えている内は良いが、ふとそれは誰なのか気になってしまったとき、実在するけど良く分からないという幻想めいた集団に惑わされることになる。その時所属というアイデンティティは近しい者同士で築く方も大切ということに気付くだろう。
ただ問題なのが、顔の見えるつながりは現代化によって難しい局面を迎えている。やはり、大きな集団には色々な人がいて、自分と似ていることもある。集団で生き残るには希少性も重要な要素であるから、人は他人と自分との違いを見つけようとする。すると、個性はより繊細になり、ちょっとした人との違いに敏感に反応することになる。繋がる行為で傷付くのを防ごうとして顔の見える繋がりを妨げるのである。こうして宙ぶらりんになった人々の向かう先は過度な思想を持つ集団ということは往々にしてあるだろう。或いは、絆とかに代表されるように何者かが仕組んだある程度の規模の方向性に連帯する。何かに属していないと不安になるから、その不安を消すために大きそうで強そうで分かりやすく安全そうな所へ流れていくのである。極左極右、ネトウヨ環境保全など、好きなだけ主張できて他人からは叩かれにくい。しかし、快活なそれらの活動に引き換えて、それに所属している感というのは一体どれほど実感があるのだろうか。よく見直せば虚構でガス抜きしているに過ぎないのではないか。無所属の不安に流される人はこうした中間的な繋がりを求めたがるが、実際に中間はない。実感として認知するか否かという二極なのである。
一先ず現段階で言えるのはここまでである。所属感は人それぞれだが、私は自分が手に負える範囲でしか所属と承認を同時に満たせないと思っている。多くの人の役に立ちたいともちゃんと思うが、それは自分のアイデンティティとしての所属を実感できる磐石な所に置いているからできることである。